明治と共にわが国の近代化が始まった。ヨーロッパの司法制度が導入され、プロフェッションの理念も伝えられた。だが、明治が築いたのは行政優先の国家体制であり、司法は行政より一段下、その中でも判・検事が上、弁護士は更にその下であった。弁護士の社会的地位は低く苦難の時代が続く。利他をもって公共に奉仕する気高いプロフェッションへの道のりは遠かった。
弁護士会は検事の監督下にあり、監督者は後に検事正、そして司法大臣となった。弁護士は「職業的水平運動」を起こした。われわれを判・検事と同じ地位にせよと主張した。だが挫折(ざせつ)。弁護士はまた「法廷における言論の自由」を求めて運動した。法廷での発言がもとで、判・検事から官吏侮辱(ぶじょく)罪に問われる弁護士が出ていたのである。この運動もうやむやになった。
昭和4年から「法曹公論」に連載された田坂貞雄の論文は、弁護士の生活苦と非行の原因を5つ挙げている。①人員の過剰、②事件数の減少、③弁護士収入の減少、④非弁護士の侵入、⑤弁護士の質の低下。現在の弁護士論との相似に驚かされる。
そして昭和6年満州事変、同12年日中戦争、同41年第二次世界大戦。戦時の思想統制と経済統制の中で、弁護士の職業的意義の崩落が始まる。弁護士会は「皇軍を慰問する」ことを決議するに至る。
昭和20年に戦争は終わり、同22年に新憲法が施行され、同24年に現在の弁護士法が制定された。これはGHQ(占領軍)のあと押しのもと議員立法によって作られた。驚いたことに、この法律は、日本の弁護士にプロフェッションの地位を与えていた。
まず、弁護士自治を与えた。監督官庁はなく、弁護士会が弁護士を監督する。弁護士業は職業ではあるがビジネスではないという立ち位置のもとで、弁護士会の許可のないビジネスはダメ、広告もダメ、報酬基準は弁護士会が決めた。一方で、弁護士業の独占は守られた。公共奉仕と利他というプロフェッションの精神は、このシステムに埋め込まれた。
平成の今、日本の弁護士はどうなったか。不幸にも、先の田坂論文の指摘が再現されている。そしてビジネスは自由、広告は自由、報酬も弁護士各自の自由となった。ビジネス化に歯止めはかからない。業務の独占も崩れてきた。プロフェッションの理念も弁護士の意識から消えようとしている。危機である。
(小 山 齊)