エリアン・カルサクリアン博士(Eliane Karsaklian, PhD,以下「カルサクリアン」という)は2017年に『持続可能交渉』(Sustainable Negotiation:What Physics Can Teach Us about International Negotiation:未邦訳)という本を書いている。彼女は5か国語をあやつり、国際文化関係と交渉テクニックについて幅広い知識と経験をもち、学者でもありビジネスパースンでもある。パリのソルボンヌ大学国際ビジネス・マスター・プログラムのディレクターでもあつた。この本を取り上げたい。それは「持続可能交渉」の21世紀的な新規さもさることながら、現在に至る40年間の交渉の現実とそれを支える交渉論について、彼女は厳しく批判しているからである。この批判を正面から受け止めることから論を進め、交渉の文化的な癖について考えてみたい。
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「現代における交渉論は1981年にさかのぼることができる。この年、ハーバード交渉プロジェクトのメンバーであるロジャー・フイッシャーとウイリアム・ユーリーが“Getting to Yes”(ハーバード流交渉術)を書いた。この本はビジネス書(ペーパーバック)としては最も長く売れたものの1つである。」カルサクリアンは、この“Getting to Yes”を現在の交渉論の象徴として扱っていく。「フイッシャーとユーリーは“原則立脚型交渉”の考え方を導入したが、彼らは意思決定論的なアプローチも採用した。もしあなたが交渉相手の要求を正確に知り、そして彼らの心の動きを知れば、彼らの将来行動を予測することができる。彼らとの交渉には何のサプライズも起きない。交渉結果は、あなた自身の戦略の一貫性とあなたが手に入れた交渉相手の情報を如何にうまく扱うかにのみ依存するというわけである。そしてこの本はまたゲーム理論、すなわちwin/win、win/lose、lose/loseの理論から交渉戦略的な考えのいくつかを取り込んでいる。」ゲーム理論戦略の説明をしたあと、カルサクリアンは言う。「これらの考えはクラシックな交渉論だ。これらは - クラシックな物理学と同様 - もはや交渉全般を説明できるものではなくなっている」。まことに厳しい指摘である。「フイッシャーとユーリーが“Getting to Yes”(ハーバード流交渉術)を書いたとき、彼らはビジネスの世界をどのように見ていたのだろうか。それは、西側の文化-ヨーロッパとアメリカ合衆国の文化 - がグローバル・マーケットを支配し運用している姿である。ヨーロッパとアメリカ合衆国の文化が、交渉の中でどのような形で現出し、また何を価値あるものとしたのだろうか。」彼女は、具体例を9つ挙げている。西側文化の交渉者たちが、特にここではアメリカ人交渉者たちが、アメリカ文化に縛られている姿がここにあると指摘する。
〇 環境管理の文化(Environmental control cultures)- スケジュール依存、サプライズや即興性を回避、計画されていないものは何であれ嫌がる。
〇 モノクロニック文化(Monochrnic cultures)― すなわち時間厳守の文化が人々を縛り、遅刻はプロフェッショナルとして失格。加えてモノクロニックな交渉者たちは時間に関して直線的に理解している。すなわち過去、現在そして未来をひと続きとし、ミックスできない。
〇 成果志向の文化(Achievement-oriented cultures)― その人物ないしその人物のもつネットワークよりも、その人物が何をなし遂げたかによってプロフェッショナル性を見定める。この文化は巧みさよりは経験に価値を置き、事実と数字に頼る。そしてまた幅広い交渉経験をもつ自信ある人物を尊敬する。
〇 ローコンテクストの文化(Low context cultures)― タスク志向である。彼らは目的地点にまっすぐに到達する。交渉相手を個人的に知る必要はく、信頼は契約書の中身におく。こういう文化の人々は直接的なコミュニケーションをとる。公式の場面でも(スイス人のように)非公式の場面でも(アメリカ人のように)。
〇 個人主義的文化(Individualistic cultures)― 交渉者は独立している。彼らは自分で交渉する。チームを組むとしても少人数だ。
〇 普遍主義的文化(Universalistic cultures)― 平等主義者的であり、すべての人々に同じルールを適用してしまう。彼らのルールは明確に表現され、理解可能であり、観察可能である。一方、彼らは交渉相手が誰であれ、会社の方針に従う。
〇 男性的文化(Masculine cultures)― 競争的、即物主義的、そしてプロフェッションナルな成果に価値を置く。競争的交渉者は短期志向であり、それ故に時間厳守であり、目的への到達を急ぎ、効率的であり、契約書にサインをしたらすぐに立ち去りたいと思っている。
〇 几帳面な文化(Orderly cultures)― 時間とタスクを書き込んだスケジュールに興味がある。交渉者たちは会合について、議論となる議題や参加する人々について、あらかじめ知りたがる。彼らは不確実性を避けるための方法としてプランを作りたがる。もしそのプランが変ったり、またプロフェッショナリズムに欠けるとか、あるいはまとまりがないなどとみなされると、不機嫌になる。
〇 直線的思考の文化(Linear thinking cultures)― 順序立ったロジックに従う。例えば、プレゼンテーションでは、人々はまず議題を紹介し、ビック・ピクチャーを示し、そのあとで主要ポイントに関する詳細に入っていく。重要なポイントを示して要約し、残された詳細のすべてはどこを当たればいいかを告げ、そのあとで質問を取る。このプレデンテーションの流れに割って入ることは無作法とみなされる。
〇 大きな空間バブルの文化(In larger “space bubble ”cultures)― 他人が身体的に近づき過ぎるとき、人々はプライバシーが侵害されたかのように感じる。一般的に言って、隣り同士で座るよりはむしろ向かい合って座りたがる。
〇 ウイーク(弱い)パワーに距離を置く文化(Weak power distance cultures)― ウイーク・パワーの人があなたとの交渉を続けるかどうかを、誰かから助言をもらうのに時間がかかるとしよう。人々はその時間につき忍耐できない。自分で何でもやりたがる交渉者(autonomous negotiators)の場合、相手のことを勝手に決め、その結果はそういう人たちのためになると考える。ウイーク・パワーとパートナーを組むこと、共に働くことに、人々は辛抱できない。(powerとは何か。powerとは、そうしたくないのにある行為を強制できる能力ないし力のことで、5種類あると彼らは考える。①経済的な力 ②社会的な力 ③心理的な力 ④政治的な力 ⑤専門的な力)。
以上が、特にアメリカ人交渉者がもつ9つの文化的な癖、というわけである。
このようにヨーロッパとアメリカの文化が生んだ交渉における、文化的な癖の数々を引用して紹介したのには、実は、私の思惑がある。すなわち、我々はアメリカ人がアメリカ人のために書いた交渉術を世界に通用する普遍的なものとして学んできたし、今も学んでいる。しかし、我々は、今学んでいる交渉術が実はアメリカ文化由来の交渉術であり、それ故にアメリカ文化独特の癖をもっていることに気付くべきだと考えているからである。交渉には、人間であるが故の思考ないし行動パターンをもとにしたものと、文化的な思考ないし行動パターンをもととしたものとがある。その自覚が求められる。
さて、カルサクリアンの言い分に耳を傾けよう。「遠慮なく言えば、この文化をもつビジネスピープルは他の文化からきた人々に、今まで、こんなメッセージを送ってきた。『我々はパワー(power)と経験をもっている。もし貴方たちが我々と取引をすることで利益を得たいと思うなら、我々のやり方に従う必要がある』1980年代の西側文化はこう言ってごまかし通した。そしてその他の文化は ― グローバル・ビジネスのテーブルに新しく登場していたが ― あえてこれに従ってきた」2001年、ゴールドマン・サックスの会長となったジム・オニールは「世界は、経済的成長を遂げつつあるBRICsを必要としている」という論文を書いた。BRICs(ブリックス)とはブラジル、ロシア、インド、そして中国などのことであるが、このグループは2010年に南アフリカを招き入れ、BRICSとなった。そして2050年までに中国は世界第1位の、インドは第3位の経済大国になると予測。その結果としてアメリカは第2位となるだろうと告げた。オニールは、更に、これにNext Eleven(N11:ネクスト・イレブン)を加えた。バングラティシュ、エジプト、インドネシア、イラン、韓国、メキシコ、ナイジェリア、パキスタン、フリピン、トルコ、そしてベトナムである。オニールは、彼らは世界の経済大国の仲間入りをする可能性を持つと告げた。BRICSとN11は、それぞれの地域はもちろん広い世界的なステージで力をつけてきた。逆転は始まった。彼らは西側文化からきたビジネスピープルに対して、次のように遠慮なく言い返すことができるようになったのである。『我々の国でビジネスをしたいのであれば、なにごとも我々のやり方に従う必要がある』古いビジネスルールはもはや使われることはない。我々が今日直面しているのはこのようなポジョンである。だが、我々はいまだに30年前からの方法を使って交渉をしている。異なった文化の広がりの中で行われる新しい現実に橋を架ける新鮮なガイドラインは、まだ現われていない。変化の時である」
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文化にまつわる交渉の癖について、面白い話を紹介したい。まず、次の図を見てほしい。譲歩パターン7つのリストだ。(Donald W. Hendon and Rebecca Angeles Hendon(1990),World-Class Negotiating: Dealmaking in the Global Marketplace. 未邦訳:27頁から引用)ボスが貴方に告げるとしよう。次の交渉にあたり$100を譲歩してよい。もちろん相手方はそんなことは知らない。交渉は1時間続くとして、その間に4回譲歩の機会があるとする。$100を一度に譲歩してもよし、分けて譲歩してもよい(それにより相手方から見返りとしてどれだけ得るかについては、このエクササイズでは無視する)。さて、貴方への質問だ。この図のリストの中で貴方にとってベストなのは何番の方法か?。最も嫌なのはどれか?。答えは貴方の胸の中に納めておいてほしい。実は驚愕の文化パターンがある。そのうちの特徴的な3つのパターンについて貴方に伝えたい。
(1) まず、最初のパターンとして3の方法をみてほしい。ノー、ノー、ノーと3回も譲歩を拒み続け、最後に一挙に$100を譲歩する。貴方は多分「あれだ」と気づき膝を打つ。そう日米交渉だ。アメリカは、ノー、ノー、ノーと引きずりながら圧力をかける。ノー、ノー、ノーの間に日本は譲歩に譲歩を重ねる。アメリカは、自らのデッドラインぎりぎりでポッキリと譲歩する。少しだけ。抜け目のない方法だ。この3の方法は、アメリカ、南アフリカそしてブラジルの譲歩パターンだという。
(2) 第2のパターンは6の方法だ。これは最初は気前よく、それから絞っていく。そのことによりこんなメッセージを送る。「井戸の水はだんだんと干上がってきた」。この方法はオーストラリア、ニュージーランド、台湾それにタイの譲歩パターンだという。
(3) 第3のパターンは5の方法だ。驚きのパターンだ。最初は低くスタートしセッション毎により大きく、更により大きく譲歩していく。信じ難いが、そうなのだ。この方法はフィリピン、インドそしてケニアの譲歩パターンだという。国内の交渉であれ、国際的な交渉であれ、我々はwin-winの解決を求めるが、それには相手方のニーズに合わせることが重要となる。しかし、相手方が交渉をゲームのように扱い、あるいはまたフエアでない戦術を使う場合もある。その背後には貴方に勝ちたい、あるいは損害を与えようとする隠された目的や策謀がある。これらを中和するための方策として、上記リストの3~6の方法のいずれかを使うこともありえよう。
以上はドナルドW・ヘンドンとレベッカ・エンジェル・ヘンドンの著書から引用した。
ところで日本人の譲歩パターンは上記リストのうちどれであろうか。考えてみてほしい。いずれにせよ交渉の世界は複雑怪奇。交渉者にとっては息の抜けない神経の磨り減る即興の舞台でもある。そこには驚きありユーモアあり、共感と協力あり、巧みな欺きもある。この世界への深入りは今回はここまでとしよう。
(小山 齊)